新しいメディアと人間工学
■身近にある人間工学
人間工学という学問は、人間にとって使いやすい、安全な道具、製品、システムを考える学問です。エルゴノミクス(Ergonomics)やヒューマンファクター(Human Factors)とも呼ばれます。疲れにくさや使いやすさをアピールするために、文具や椅子、キーボードやマウスなどの製品の謳い文句として、「人間工学に基づいた……」、「エルゴミクスデザインによる……」といった文言が使われているのを見たことがある人もいるかと思います。ただ、人間工学が扱う範囲はこのような道具や製品の設計だけではありません。快適な住環境や安全な作業環境、高齢者にもやさしい公共施設、情報機器のユーザインタフェース(UI)、働きやすい環境など、幅広い分野を対象に人間にとって安全で快適な暮らしを実現するための研究をしています。例えば駅のホームにある点字ブロックの警告表示なども身近にある人間工学の成果の一つです。
他にも、人間工学が対象とする分野にはメディア技術も含まれます。テレビや映画といった従来のメディアはもとより、ゲーム、VR、SNSなど、新しいメディアもどんどん登場してきています。こうした新しいメディアについても、人間工学的な検討を通して、安全で快適な使い方や健康やストレスへの影響などを明らかにし、適切なメディアの発展に貢献することを目指しています。
■社会環境の変化と人間工学
人間工学における研究の基本は、人間の特性を理解し、その特性に合わせた仕組みを考えることといえます。人間の特性が変化することはそうそうありませんが、一方で人間が活動する社会環境の変化は急激に起こることがあります。こうした大きな変化は、これまで表面化しなかった課題を明らかにすることがあります。
ここ20年ほどの歴史の中で、労働環境や社会環境が変わった出来事がいくつかありました。1990年代後半のインターネットの普及、2000年代後半のスマートフォンの登場、さらには、新型コロナウィルスの流行などは現在進行形で変化をもたらしています。インターネットの普及は、PCの普及を推し進め、VDT作業(Visual Display Terminals、簡単に言うとPCのモニターを見てキーボードなどを操作する作業環境)による健康被害の増加が問題となりました。そうした状況から、厚生労働省によって「VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン」が策定され、労働者の健康に考慮したオフィス環境づくりなどが推奨されました。また、スマートフォンの登場は、労働環境のみならず社会環境にも大きな変化をもたらしました。いつでもどこでも情報が得られるようになったことによって、むしろ、どんな危険な場所、時間でもスマートフォンを操作してしまうという問題が起こっています。今でも「ながらスマホ」、「歩きスマホ」といった行動が大きな課題になっているのはご存じのとおりです。
近年のコロナウィルス流行による社会活動の制限は、これまでのようなメディアの発達に比べても、短期間で大きな変化をもたらしたという点で特徴的といえます。在宅での勉強や労働が行われることになったことは、その一例でしょう。今まさに、在宅での仕事によって生じる健康被害などが表面化しつつあります。日本人間工学会からは、こうした課題に対して早急に取り組むために、「タブレット・スマートフォンなどを用いて在宅ワーク/在宅学習を行う際に実践したい7つの人間工学ヒント」[1]という提言が発表されています。普段、情報機器を使用する環境に対して意識してこなかった人も、こうした資料から一度自分の環境を見直してみるのもよいのではないかと思います。
[1] ⽇本⼈間⼯学会,榎原 毅・松⽥⽂⼦(訳)「タブレット・スマートフォンなどを⽤いて在宅ワーク/在宅学習を⾏う際に実践したい7つの⼈間⼯学ヒント」⽇本⼈間⼯学会,2020
それではこれから起こりえる労働環境、社会環境の変化は何でしょうか。一つの可能性として、バーチャル空間で仕事をすることが近い将来実現するかもしれません。「メタバース」という名前が今世間を賑わせていますが、VR技術が発展することにより、仮想空間でのコミュニケーションや、その場で様々な仕事ができるようになる未来が期待されています。メタバースとは何なのかという定義についてもまだ議論が多く、どんな変化が起こるのか多くの予想がなされています。ただ、人間が活動する新しい環境が生まれると考えられ、そこでどんな課題が起こるのかを考え、人間にとって快適な環境を作り出すための検討を行うことが、人間工学にとって大きな挑戦となるでしょう。
■仮想空間における人間工学
仮想空間を構築する技術と人間工学は、非常に近い内容を扱っています。なぜなら、仮想空間で現実空間と同じような体験を再現しようとするとき、人間の認知や身体の特性について理解することが重要だからです。現在VRの主なコンテンツとしては、ゲームが大きな比重を占めているため、ゲームを作る技術を応用したコンテンツが作られています。しかしVRでは、視覚や聴覚、触覚など、人間の感覚に対する情報を扱う必要があり、従来の視聴覚を中心とするメディアとは異なった知識や技術が求められてきます。人の特性に対する理解からシステムの設計を行うという人間工学の基礎が、VRのメディアコンテンツの制作にも役立つことが容易に想像できるでしょう。
VR技術の普及についてメタバースの話を挙げたように、これからの社会に大きな変化が訪れることが期待されています。高品質で安価なHMDの登場、コロナ禍によるリモートワークの普及、仮想空間を共有するネットワークインフラの整備といった様々な要因が、偶発的にも重なり、新たな社会基盤としての空間の誕生を予期させ、メタバースという名前をもって注目を集めているわけです。
ではVR空間で活動するようになったとき、人にはどのような影響があるでしょうか。一つは身体的な負担が挙げられます。PCの普及によって表出した健康被害は、長時間不適切な姿勢で負担の大きい作業を続けることがその原因として考えられ、いかに快適な労働環境を整備するかが課題となりました。この時に用いられていたモニターがHMDに代わり、キーボードは実際の手を使ったジェスチャーになったとすると、どのような課題が出てくるでしょうか。もしかすると、人間にとって自然で健康的な労働環境となるかもしれませんし、何か重大な健康問題を引き起こすかもしれません。そこでも、人間工学の知識は多くの課題を解決する役割を担うと期待されます。
■高校生の皆さんへ
大きな社会の変化が起こっているとき、その中心にいられるという体験は、人生において非常に大きな影響を与えます。新しいメディアの登場によって、学校の在り方、仕事の在り方、社会の在り方が変わるという出来事にこれからたくさん出会っていくでしょう。メディアを学ぶ、または作っていくということを目指したいと思っている人は、是非社会の変化を五感で体験する機会をたくさん持ってもらいたいです。
一方で、どんなに社会が変わっても、人間そのものはそんなに簡単には変わりません。人の特性を理解するといった時、生理学的な側面を指すことも、心理学的な側面を指すこともあります。また時には社会学的な側面について考えたりすることもあるでしょう。VRとは何かを深く考えた時、自分とは何か、現実とは何かといった哲学的な問題に思いを巡らすこともあります。そうした大きな問題に対して答えを考えようとするとき、体験という知識は大きな示唆を与えてくれます。多くの事を自身で体験することに積極的でいてもらいたいと思います。
このWebページでは、メディア技術コースの盛川先生にお話をうかがいました。
教員プロフィール
メディア技術コース 盛川 浩志 講師
■人の知覚について興味を持ったきっかけは、コンピュータグラフィックスで描かれた人間のモデルが、モーションキャプチャによってアニメーションしている映像を見た時、その自然さに驚いたという経験をしたことが大きいです。明らかに作りものだとわかる絵が、まるで生きているように見えるのはなぜなのか、人はどういったところに自然さを感じるのかという疑問をもち、それに関連した研究をしている学問として人間工学を知りました。研究をする中で、立体映像やVRというメディアに出会い、コンテンツの制作や評価などを行ってきて今に至ります。今でも新しいメディアの登場に関心を持ち、どんなことが体験できるのか、どんな新しいことが可能になるのかといったことにワクワクする気持ちを忘れないように活動していきたいと思っています。