働くすべての人たちが等しく産業保健サービスを受けられるように、看護という立場から提案していきたい!
2013年10月11日掲出
医療保健学部 看護学科 五十嵐 千代 准教授
日本全体の健康を考え、病気の予防活動をしたいと保健師になられた五十嵐先生。中でも働く人たちの健康支援に興味を持ち、一般企業で産業保健師として活躍されてきました。現在は、産業看護や産業保健分野を牽引する存在として、内閣府などさまざまな学外組織で委員を務めるほか、本学部に「産業保健実践研究センター」を設立し、センター長として活躍されています。そんな五十嵐先生に、ご研究と教育についてお話を伺いました。
2013年 第3回国際公衆衛生看護学会(アイルランドにて)日本公衆衛生看護学会国際活動推進委員会委員長として出席
■先生のご研究についてお聞かせください。
私自身は、看護師であり保健師でもあって、長らく企業で産業保健師として仕事をしてきました。ですから産業分野での保健師活動が専門となります。看護師と保健師の違いについて説明すると、保健師助産師看護師法では、療養するうえでのケアや診療補助を担うのが看護師で、病気を持つ・持たないに限らず、あらゆる人の病気の予防活動や健康支援のために保健指導を行うのが保健師ということになっています。ですから保健師が働く場所は、病院ではなく保健所や保健センター、企業などということになります。そこで保健指導を中心とした個別の支援や健康教育を行ったり、地域全体の健康度を上げていくための仕組みをつくったり、政策にあげたりと、マネジメントをしていくわけです。ですから看護師的な視点で対象者と向き合いながら、その方たちが住む地域の社会資源を活用したり開発しながら地域全体の看護を担うのが保健師の活動だと言えます。ちなみに保健師になるには、看護師免許を取得したうえで、保健師免許を取得する必要があります。つまり、二つの国家試験に合格しないといけないんですね。現在、4年制大学は基本的に看護師の養成を中心に据えているので、保健師の養成についてはコース選択制を採用するか、大学院で養成課程を設けるかのどちらかになっています。ただ、実習受け入れの関係上、人数制限があり、東京都特別区の場合、保健所実習の受け入れは各大学20名となっています。ですから本学科も保健師の養成課程を受けられるのは、希望者の中から選抜された20名ということになります。もちろん看護師の国家試験にも合格する必要があるので、看護師の養成課程と並行して行われます。
前置きが長くなりましたが、そういうわけで私は産業分野での保健師として、さまざまな研究に取り組んできました。そして本学に赴任してからは、キャンパスのある東京都大田区の保健所や医師会と連携を取りながら、区内の小規模事業所における労働者の健康支援について研究しています。大田区というのは、非常に小規模事業所が多い地域です。以前、ここ蒲田を舞台にしたNHKのドラマ「梅ちゃん先生」でも描かれていましたが、町工場などがたくさんある土地柄なんですね。また、日本は国民の約半数の6000万人くらいが労働者ですが、その内の約3500万人は、法律で守られていない小規模事業所で働いています。というのも労働者数50人未満の小規模事業所は、産業医を選任する義務がなく、従業員の健康に対して法律が関わってこないからです。つまり町工場や小規模事業所で働く人たちの健康管理は、国の健康管理の政策からすっぽり抜け落ちてしまっているんですね。大企業ですと、社内に産業医や保健師がいて、働く人にかなり手厚い健康支援がなされていますが、小規模事業所では健康診断すら受けていない人が多々います。そこで大田区内の小規模事業所を対象に、健康支援に関する実態調査を行い、働く人が自分たちの職場を自分たちで評価し、健康管理のあり方を自主的に変えていけるようなアセスメントツールを開発しようと取り組んでいるところです。例えば、わかりやすいパンフレットや標語などをアセスメントツールとしてつくれないかと考えています。また、私はメンタルヘルスにも長く携わってきたので、健康支援の中でも特にメンタルヘルスの部分で、自殺対策に関する研究にも取り組んでいます。
■小規模事業所への調査では、どのようなことが明らかになったのでしょうか?
蒲田界隈の小規模事業所400ヵ所ほどを、大田区保健所と合同で2年かけて調査をしたのですが、色々とわかってきたことがあります。中でも印象的なことは、小規模事業所でも事業主が社員に対して、健康診断を受けるように健診日を設定したり、健診結果に問題があるときは病院に行くように勧めたり、日頃から面談の機会を設けて、心身の状態をきめ細やかに把握するなど、さまざまな形で従業員の健康を支援しているところは、業績も素晴らしく、優れた仕事をしているという点です。それこそ“大田ブランド”とか“オンリーワンの技術”と言われるような企業に成長しているところは、どこも働き手の健康管理がきちんとなされていました。ですから、こうした事業所のうまくいっている理由やポイントを明らかにすることで、「健康管理をする=生産性が上がる」というロジックを持ってくる、つまり事業主が働く人を守れば、会社は儲かるということを提示できれば、働く人の健康管理に消極的な事業主の方たちも動くのではないかと思っています。いくら法律で網をかけても、事業主はお金を儲けて会社を存続させることが最優先ですから、どうしても健康管理は労働者本人まかせという状態になりがちです。そういう部分が改善できるようなアセスメントツールを開発しようと取り組んでいます。
また、調査を通じて出会った、従業員の健康管理に積極的な会社には、4年生の「地域看護学実習」の実習受け入れ先になってもらっています。「地域看護学実習」では、必ず学生に大企業と大田区内の小さな企業の両方を見てもらう機会を設け、環境や規模の違う2つの会社を比較して、その中で働く人たちがどういうことを行っているか、あるいはどういうシステムがあれば、働く人たちが等しく産業保健サービスを受けられるかということを議論してもらいます。というのも病院に入院する患者さんの中には、普段、労働者として働いている方が多々いらっしゃるわけです。本学の学生が看護師となって、そういう患者さんたちと向き合ったとき、なぜこの人たちがこういう病気になったのか、あるいは退院後の生活を考えて、今、どういう支援を行うべきかというイメージを広げられるようになっておくことは、非常に重要です。また、もうひとつ大事なこととして、看護師自身が早期離職の状況にあることが挙げられます。学生が看護師として働き始めたとき、自分たちの職場のリスクをどのように捉え、働きやすくするためにどうするのか、考えられるようになることも大切なことなのです。ですから、学生には、シフトや作業のあり方、スタッフ間のコミュニケーション、患者さんとの関係性などを自分たちなりに工夫し、職場環境を変える提案ができるような力を養ってもらえたら、うれしいですね。
大田区小規模事業場での産業看護実習
■では授業では、どのようなことを教えているのですか?
例えば、3年生前期の「産業看護」という授業では、導入としてディズニーランドの写真を見せ、ミッキーたちの職場環境を考えてみるところから始めています。高血圧の人は高所作業に就けることはできないのですが、ショーでは高所作業があるけれど、ミッキーの血圧は大丈夫かとか、1日に何度もショーをしているので、メンタルヘルスの部分はどうかとか、人間関係はどうかという話をするんですね。そういう親しみやすいテーマパークやキャラクターの話から入るので、学生はすごく飛びついてくれます(笑)。他にも、私自身が町工場で撮らせていただいた写真を学生たちに見せて、職場にどんなリスクがあるかを考えてもらうこともしています。例えば、ガラスのリサイクル工場や木工所、金属加工所の写真などを、学生たちに次々と見せ、どこにリスクがあって、どう支援したらよいかということを考えさせます。ハード面だけでなく、そこで働いている人たちの表情や服装、外国人労働者の様子などから、ここにはもしかしたらこんな問題があるかも知れないということを議論していきます。また「産業看護演習」では、簡単な環境測定に取り組んでもらうこともしています。学生が測定器を持って、学内外のさまざまなところの照度や風速、気流、騒音などを測定することで、どのくらいの音が騒音になるかなど、体験を通して実感してもらっているのです。他にも2年生前期の「公衆衛生看護学概論」では地区踏査といって、グループごとに大田区内を見て回ることもしています。それにより地域の特徴や、そこに住んでいる人の特徴、潜在している問題などをダイレクトに感じてもらっています。こうした経験をすることで、人々を取り巻く環境に注意を向け、そこにある問題が、そこで生活する人にどんな影響を与えるのか、理解できるようになってほしいと思って指導しています。
■学生には、どんな看護師になってほしいと思いますか?
やはり患者さんを多面的に見られる看護師になってほしいですね。そのためには、保健師になる・ならないに限らず、保健師的な視点を持つことが大切だと考えています。看護師は個人をどう支援していくかという“個”から入りますが、保健師は個人を見ることに加えて、全体を俯瞰して見る、つまり対象者はどんな環境の中で、どんな生活をしているのかといった多面的な見方が必要になってきます。また、今は問題がなくても、将来、この地域はどうなっていくのかといったことも考えなければなりません。ですから未来につながる潜在的な問題を捉えていく力も要求されるんですね。病院で働いていると、どうしても患者さんを医学モデルで見てしまいがちです。この疾患はどんなもので、薬は何で、治療はどういうものか、反応はどうかというように。もちろんそれらは必要なことですが、病気を中心に据えてしまって、患者さん自身を見ていないなんてことではいけません。患者さんが退院して地域に帰っていったとき、どんな生活をするのかという生活モデルで見ていかなければ、良い支援はできないのですから。また、本学を巣立つ学生は大学で学んだナースですから、看護の現場でリーダーになっていく人材です。リーダーになるには、やはりそうした保健師の領域までも、勉強しておく必要があると思います。
また、保健師を目指す学生には、“考える保健師”になってほしいと思っています。今、行政職は非常に忙しく、目の前の仕事をこなすだけで精いっぱいという状態にあるのですが、そればかりに囚われず、地域の健康をきちんと把握しながら、自分のしていることが最終的に地域の健康度にどう寄与しているのかという全体像を捉えて取り組んでいけるようになってほしいんですね。そのためには、自分で何か研究をして明らかにしたり、開発したりということが大事になります。今は社会の変化が激しく、生活自体も大きく変化してきています。そういう中で起こるさまざまな問題に柔軟に対処しながら、考えて、つくっていける人になってほしいのです。よく、保健師の役割は「見て・つないで・動かす」と言われますが、まさしくその通りで、アセスメントをし、住民をつないで動かし、政策につなげるという創造性ある保健師になってほしいと思っています。
大企業での産業看護実習
東京工科大学地域看護学教員・ゼミ学生と大田区保健所保健師との合同調査チーム
■最後に今後の展望をお聞かせください。
研究では、日本国内で働くすべての人たちが等しく産業保健サービスを受けられるように、看護という立場から提案していきたいと考えています。というのも日本は、国際労働機関(ILO)という国際専門機関が定める労働条約のうち、今、申し上げた「すべての働く人たちに等しく産業保健サービスを提供する」ことを示した161号条約を批准できていないからです。アジアの諸外国には、批准している国がけっこうあるのですが、世界屈指の経済大国である日本がまだ批准できていないというのは、非常に残念なことです。その理由は、最初にお話ししたように、労働者数50人未満の小規模事業所には、労働者の健康管理に法律の制約が及ばない状態だからです。そういう背景もあって、小規模事業所を対象に研究し、将来、日本がこの161号条約を批准できる国となれるように、看護という立場からアプローチしていきたいと思っています。やはり、働いている人たちが元気でイキイキしていないと、国の未来は暗いものになりますからね。日本は高齢化が加速していますし、技術は労働賃金の安い海外に移り、中小企業は非常に厳しい状況です。大企業でもリストラが行われ、非正規雇用の問題もあります。非正規雇用の人たちは、正社員と同じように働いても賃金が安く、産業保健サービスも受けられないという現状がありますし、そういうところに自殺者や職業病が多かったりもします。そうした格差をなくし、すべての働く人が何らかの形で産業保健サービスを受けられるような仕組みをつくりたいのです。そのモデルケースを日本の縮図のような労働環境がある、ここ大田区で実現して、「大田区モデル」として全国展開できればいいなと思っています。
・次回は11月8日に配信予定です。